第12集 ロールモデル集 日本語
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影響を受けた人〜彼女のリーダーシップ性はいかに形成されたのか〜(1)ロールモデル1:父・豊一さん先生に影響を与えた人の一人に、父・豊一さんの存在がありました。彼は外交官として勤務し、中国やドイツ、イタリアに赴任された経験もあります。一言でいうと勉強家で、誰に対しても物事を丁寧に説明する方だったようです。家にはたくさんの本があり、先生にも多くの本が手渡されたといいます。大学に進学したのも、豊一さんから「勉強をしたほうがいい」という勧めがきっかけでした。今よりも女性の社会進出が困難であった当時から、先進的な考えを持っており、その環境が先生の進路選択に影響を与えたのでしょう。また豊一さんの人柄も、先生に通じる点がありました。日中戦争の最中であった1938年、中国の総領事を務めていた豊一さんは、水面下での和平交渉を行っていました。当時中国の最高指導者だった蒋介石についての見方が、外務大臣との間で異なっていたところ、上司に対してもひるまず意見を述べる人だったといいます。まさに、自分の信念にまっすぐ生きる人であり、先生の強い信念も豊一さんから受け継がれたといえます。父親の存在は、大人になってからも先生のキャリアに大きな影響を与えました。国連総会へ参加することになった1968年7月末、婦人運動家で知られる市川房枝氏が突如訪問したことがきっかけです。その年の9月から三か月間にわたってアメリカ、ニューヨークで行われる国連総会に参加の依頼がありましたが、先生は当時、第二子が生まれたばかりだったため、最初は「無理だ」と思ったそうです。母親の恒子さんからも無理だと言われ、参加を悩んでいました。しかし、豊一さんから言われた「ああでもない、こうでもないと可能性を論じているより、まず出席すると決めて、それから人を探しなさい、方法論を考えなさい」「みんなでやれば何とかなるから、行きなさい」(小山、P128、2014)という言葉で、出席する決心をしました。学生職員橋野(2)ロールモデル2:ブリット学長~学生時代に出会った言葉~ブリット学長は先生にとってのロールモデルでした。本名をエリザベス・ブリットといい、アメリカ・ニューヨーク州オールバニ出身です。1937年に、聖心女学院語学学校長として日本に派遣されました。太平洋戦争の影響で帰国を余儀なくされましたが、1946年に本人の強い希望で再度来日外国語学部主催講演「平和に賭けるー難民保護の10年」講演が行われた10号館講堂は学生や教職員で満員となった(2001年4月26日)家事育児が女性の仕事だった当時、それを一旦休んで自身のキャリアに繋がる仕事に専念する決断は、簡単ではないと思います。思い切って参加した先生の決断力に畏敬の念を抱くとともに、その裏には周りの人たちの協力的な姿勢もあったのだと感じました。女性のライフコースとキャリアを両立する中で様々な葛藤があったと考えられますが、可能性を信じ、後押ししてくれる言葉が先生の原動力に繋がったのだと思いました。UNHCRのトップとして上智大学を訪れた時の様子4

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